映画を観る前に原作を読みなおそうと思って「人間失格」を読み直した。
「人間失格」を読むのは三回目。
最初は高校生の時、
二回目は去年。
読むたびに感じることが違う。
最初読んだときは「うわ、こんな人間になりたくないな」と思った。
二回目に読んだときは「うわ、自分こんな人間になっとるわ」と思った。
そして今回読んで抱いた感想は
「これって究極の『※ただしイケメンに限る』小説じゃね?」だった。
なんか段々読み方が斜に構えたというか穿った感じになってる気がしなくもない。
そして、読むのも3回目になってようやく主人公の名前を覚えた。
葉蔵って僕の名前に似てるな。
そういう点でも何かシンパシー。
いや、まあ葉蔵≒太宰だから、治と僕の名前とは似ても似つかないけど。
原作をきちんと読みなおしたところで、
映画「人間失格」を観てきた。
主演が生田斗真であるということ以外は特に予備知識もなく観に行った。
少々「んっ?」って思うところもあったけど結構よく出来てたんじゃないかと思う。
まあ僕は普段映画をあまり見ない人なので、
映画に関する評価なんてどういうところを評価すればいいのかよく分らないんだけど。
これから見ようという人がいたら注意を促したいのは、
映画を観るなら必ず原作を読んでからにしてほしい、ということ。
原作にある独白部分はほぼ全てカットされており、
原作を読んだことがある人が観ることを前提に作られているように感じた。
原作で葉蔵はこう考えてたよなあ、とか思いながら映画を見ると楽しめる。
映画とは関係ないところで感想を言うと、若い女性客が非常に多かったのが意外だった。
生田斗真のファン層なのかな?
その次に年配のおっちゃんおばちゃんが多くて、
僕みたいな若い男の客はほとんどいなかったように思う。
たまたまそういう日だったのかな?そういやレディースデーだったっけ。
【ここらへんから映画の内容に関する感想、ネタバレ注意】映画を見ない男が映画に関して言うのも口はばったいけど、詳しい感想を書いておきたい。
なお、台詞の細かい部分は僕の記憶違いもあるかとも思うのでご了承されたし。
あと、僕が読んだのは新潮文庫版、青空文庫版なので、
もしかしたらこの映画の原作である角川版を読んでない故の解釈の相違もあるかもしれない。
映像化不可能と言われていた「人間失格」という作品が映画化されたわけだけど、
やはり十全ではないというか、不満は残る。
原作は主に大庭葉蔵という人物の手記による独白で物語が進み、会話文も少なく、
それが映像化を妨げる一因であったのだろうと思うのだが、
映像化するにあたって、独白だけで進めたらキョンになるし、会話がなければ映画として成り立たないしで、
それらを上手いことなくしたり付け足したりしながら制作したんだろうけど、
その結果、僕の「人間失格」という作品に対する解釈、というか受け止め方と映画との間に溝を感じた。
例えば、中学の体操の時間にわざと失敗して道化を演じた葉蔵に対して竹一が
「ワザ、ワザ」と囁くシーン。
原作では竹一の台詞は
「ワザ、ワザ」としか書かれていないのに、
映画ではそのあとにさらに
「わざとやったんだろ?」と話しかけていた。
僕はこのシーンは、
竹一には「わざとやったんだろ?」と指摘するとかいう気持ちは一切ないのに、葉蔵が過剰に気にしている、
という葉蔵の人間恐怖を印象付けるシーンだと解釈している。
映画ではその後も竹一が自ら葉蔵の家に脚を運んだりしていて、竹一がいやにこすく描かれていたし、
葉蔵の内面をあまり表現できていないように思った。
まあ、そもそも、原作が葉蔵の独白、つまり主観であるのに対して、
映画は葉蔵の独白を全く使わず、客観的に葉蔵を描いていたので、
その時点で原作との大きな乖離があるわけだけど。
原作に大きく手を入れないと映像化することが出来ず、
それゆえに僕みたいな感想を持つものが出るであろうから、
映像化不可能と言われてたんだろうなあ。
それはともかくとして、僕がもっとも解釈の溝を感じた点。
それは、田舎に戻った葉蔵が、「母になる」と言って布団に入ってきたテツに対して言った
「こんな僕を許してくれるのですか?」という台詞。
これは、正直言って、
僕の解釈とは全くの逆だ、葉蔵がこんな言葉を吐くわけがない。
僕は、葉蔵が「許されたい」と思っているとは思わない。
むしろ「許されるべきじゃない」と思っていたと思う。
原作には、葉蔵が、
「神の愛は信ぜられず、神の罰だけを信じているのでした」「考えると何もかも自分がわるいような気がして」と独白している部分もあるし。
とするとこんな台詞は間違っても出てこないんじゃないかと思う。
そもそもこの台詞を言うシーンは原作にはないシーンではあるのだけど。
むしろテツを良い人みたいに描く必要があったのかと問いたい。
映画の中盤で葉蔵が下宿先の女にカルモチンを買いに行かせるシーンがあったから、
それがラストシーンとの対比になると思って楽しみにしていたのに。
映画的なラストにしないといけないのは分かるのだが、ラストがどうにも蛇足過ぎた気はする。
一番残念なのは、
去年読んだ感想でも僕が言及した、
「人間、失格」の部分が、映画ではさらっと台詞に入れこまれてただけだった点だけど。
ここまで不満ばかりを挙げてきたが、当然良かった点もある。
原作にあったシーンでこれは良いと思ったのは、ヨシ子が商人の男に犯されるシーン。
僕は「人間失格」の中で一番好き、というか印象的な部分を挙げろと言われたらこのシーンを挙げるが、
犯された後のオドオドしたヨシ子や、葉蔵とヨシ子のあいだに生まれた間というのが上手く表現されていたと思う。
無垢であった頃の可愛さといい、石原さとみGJ!
どうでもいいけど、映画が終わって、感想を言い合っていた観客が、
「ヨシ子を犯したのって原作では堀木じゃなかったっけ?」「そう!それ私も思った!」
という会話をしていたが、原作でも商人の男です。
堀木は現場を目撃していながら何もしなかっただけです。
「見て見ないふりしている人もいじめの加害者」という理論でいけば堀木も加害者だけどね。
かく言う僕も三回目読みながらそのシーンに近づくにつれて
「あ~、ヨシ子が堀木に犯される」
と思いながら読んでたから、他人のこと言えないし、よくある勘違いなのかもしれない。
それと、原作にはない映画オリジナルの部分ではあるが、
中原中也が登場したのも僕としては嬉しかった。
近代で言えば、好きな作家は太宰治、
好きな詩人は中原中也な僕なので。
GOタリモこと森田剛はいい役もらったなあ。
にしても太宰治と中原中也は親交があったのか・・・知らんかった。
好きな作家、好きな詩人に挙げておきながら二人に交友関係があったことは知らないなんてファン失格なのかとも思うけど、
葉蔵と同様に、僕も
「どうも他人の身の上には、あまり興味を持てないほうなので」ね。
作品さえ良ければ、作者のバックボーンなんてどうでもいいと思ってしまう。
遠子先輩にこんなこと言ったら烈火のごとく叱られそうだけど。
なんか結局不満の方が多くなっちゃった気がするけど、
小説で主観的に観ていた葉蔵の半生を、客観視出来たという点で面白かったと思う。
ただ、その客観視故に、映画内で葉蔵のモノローグというものはほぼなく、
その部分は演技で全て補えるところではないので、
「人間失格」という作品の魅力を完全には伝えきれていないと思った。
いや、生田斗真は良く演じてたと思うけどね。
書籍と映画という媒体の違いがあるから仕方ないか。
書籍と映画では見せ方の違いがあるのに、映画の方を低く見てしまうのは、僕が映画嫌い故か。
とりあえず僕とは違う解釈の「人間失格」の見方だったので、
もう一回くらい観てみたいような気はする。
別にリピーターになってもフィルムとかもらえないけどね!
(全く関係ないけど、アニメ映画でやってる「リピーターになって特典を貰おう!」みたいなキャンペーンは気に食わない。
作品の内容でリピーターにさせろよ、って思う。)
「“文学少女”と死にたがりの道化」を読み直したくなった。
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私も堀木に犯されると思って観てたけどそういや階段のトコで一緒に見てたシーンがと古い映像で思い出し「あれ?映像化されてなかったっけ?」と思い探索中
私は原作を子供の頃に読んで大嫌いになり中学で感想文の都合で読んでやはり嫌いでした。
作品から感じた虚無感や死臭に嫌悪感をいだき作者調べて自殺と知り、子供の頃から変化はあれど大嫌いは変わらないです
葉蔵にイナズマキックや無数の拳の後にゴッドフィンガーしたい気分からバスターランチャーかメイオウ攻撃で消してやりたい気分に変わったぐらいかな・・・
いや…気にしないで下さい…
観に行った日はガンダムUC→ハルヒ→人間失格と観たので最初のテンション見事に壊れた…
リピートキャンペーンなんてだだのオマケだし作品に魅力がないと誤差程度の数字しか出ないので気にする必要はないかと
私はハルヒはもう行かないから半券はファンのヤツにあげて恩を売っとくかな