一昨日、ばあちゃんが亡くなったので、
昨日、今日と山口に行ってきた。
今日火葬して骨になってしまったから、
ばあちゃんがこの世にいられたのは今日までで、明日からはばあちゃんはいない。
5年生きられないと言われた難病を患いながら、
母が懸命に介護をしていたおかげで罹患後11年も生きてたので、
語弊があるかもしれないけど、
母が非常に大変そうだったので亡くなってくれて少しホッとしてる部分もある。
とは言うもののやはり身近な人が亡くなったのは悲しいことでもある。
特に僕にとってはこれがほぼ初めての身近な人の死である。
一応ひいばあちゃんが亡くなった時のこと(多分5,6際の頃)は覚えているけど、
当時は「死」というものが全く分かってなかったし、
クレヨンしんちゃんの漫画を買ってもらって読んでた印象しかない。
飼ってた犬が亡くなったことはあるけど、
やはり人の死となるとまた違う。
ばあちゃんは孫である僕や兄に優しかった。
子供の頃はよくダンボールにお菓子を詰めて送ってくれた。
日本舞踊の先生をやっていたためか、
僕が高校2年生のとき、体育祭で応援団員になって阿波踊りを踊ったのを喜んでくれて、
ビデオで何度も見てくれていたらしい。
一緒に旅行も行った。
晩年は痴呆が進んで、僕のことをずっと高校生だと思っていたみたいで、
それはちょっと悲しかった。
今回、ばあちゃんが亡くなったこと自体も悲しいけど、
他にもいろいろ考えて悲しくなった。
まだ残ってる父方のばあちゃんや母方のじいちゃんもいずれ死ぬことを考えて悲しくなった。
今は元気そうだけど、自分の両親もいずれボケたり寝たきりになったりするのかなと考えて悲しくなった。
自分自身や妻もいずれそうなるのかなと考えて悲しくなった。
息子に僕らの介護をさせることになるのかなと考えて悲しくなった。
人は死んだらどうなるんだろうと考えて怖くなって悲しくなった。
何よりも悲しかったのは、
これまた痴呆が入ってるじいちゃんが、
ばあちゃんが死んだことを理解できていない、もしくはその場では覚えてても少ししたらすぐ忘れているようであること。
60年近く一緒にいたのに最後にはそうなってしまうというのがとてつもなく悲しいことだと思った。
でも一方で、ばあちゃんにしろじいちゃんにしろ、
ボケて「死」というものが理解できなくなっていたほうが、
かえって救いがあったんじゃないかとも思う。
最近はiPS細胞だのSTAP細胞だので再生医療の分野が発展していってるんだろうし、
もしかしたら将来的に痴呆やアルツハイマーを治すことのできる時代が来るのかもしれない。
でもそうなってしまうと、自分の死や大切な人の死に真っ向から向き合わなくてはならない。
だったらいっそボケて「死」を理解できなくなったほうが幸せなんじゃないか。
医療技術の発達のニュースを聞くたびに、
技術の発達自体はいいことなのかもしれないけど、
それが必ずしも人間のためにならないんじゃないかと、
長生きすることが本当にいいことなのかと、
僕は考えてしまう。
何が書きたかったか自分でもよく分からなくなったけど、
ばあちゃんが死んだ一方で、
僕には息子がおり、兄のところにも娘がおり、二人とも元気に育っている。
死んだり産まれたりで人間成り立ってるんだなあと、
つくづく感じました。
頑張って、死ぬまで生きよう。
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